作品とその説明について

【第10回 美術を語る茶会】


開催地:トキハ別府店 7階

参加者:3名


ところでギャグにいちいち説明をつけるのは寒さの極みですが、例えば古典落語などある程度の予備知識が必要なものには説明(解説)が必要な場合もあります。同じように美術作品にも説明の必要なものとそうでないものがあると思われます。


主に感覚的なものに訴える作品、例えば絵画や彫刻などには余計な説明は邪魔になることが多いですが、コンセプチャルアートなどは言葉での補完が必要な場合もあります。一概には言えないデリケートな立ち位置のこの「作品の説明」ですが、この「説明」が、作品の理解を妨げたり、作品そのものをおかしくしているという本末転倒な出来事もおこっています。今回はそんなお話です。


前者の感覚的なタイプで、非常優れた作品であるにも関わらず見当違いの説明で作品を台無しにしている展示をたまに見かけます。それは作品の完成後本人の作品に対する理解もままならないうちに無理矢理作った文章である場合が多いのだと思いますが、それはまだ救いがあります。その説明文を会場の壁から外せばいいだけだからです。


問題は後者のコンセプチュアルなタイプによくあるのです。


それは会場に掲げられた説明が作品の完成後に考えられたものではなく、作品制作前の最初のアイディアをそのままトレースしたものである場合です。もちろん他のタイプの作品もそうですが、コンセプチュアルアートは特にコンセプトにブレがあってはなりません。そう考えて一貫したコンセプトを大事にしたのでしょう。しかし最初のアイディアを書き付けた、もしくは頭の中で考えたテキスト(これらをコンセプトと呼ぶ事も多いが)を絶対のものとして最後まで制作するのは危険な事です。なぜならそれは、作品が言葉の向こう側にジャンプできる可能性を完全に摘み取ってしまうからです。


美術、音楽、文学、全ての芸術作品は言葉を超えた表現でなければ意味がありません。しかし言葉のレベルの設計図にがんじ絡めになっていては、言葉を超えられないのは当然です。最初に打ち立てた所謂「コンセプト」に縛られ過ぎた作品は、説明文の内容を説明する「図1」的なものになり下がってしまいます。なぜならその作品には説明文以上の情報が無いからです。つまり単純過ぎる作品となってしまう、これが説明が作品そのものをダメにしているパターンです。


作品制作においては言葉で設定したルールに縛られすぎず、感覚を信じる事はとても大事です。それは無軌道とは違います。「この作品にはAが必要だ!」と思った時、言葉のレベルでの「浅いコンセプト」がそれを認めないとしても屈してはいけません。作品のアイディアが強靭なものであるならば、感覚を採用する事よって完成する作品のコンセプトがブレる事はまずありません。本来の「深いコンセプト」は感覚の中に宿っているからです。作品制作は感覚の中に眠る本当のコンセプトを掘り起こす作業でもあり、それがより奥行きのある作品をつくり得る方法なのだと思います。言語レベルでの整合性は、つくりながら或いは完成後に考えればよいのです。


そこで言っておきたいのは、感覚とは決して曖昧なものではないという事です。感覚とは言語のように限定的ではない、もっと抽象度の高い思考空間です。そこではより多くの情報がより横断的に交換され結論が導き出されます。それが第六感や霊感(インスピレーション)と呼ばれるものです。だからその結論が言語レベルで理解出来ないからといって、それが間違いだと考えるのは間違いなのです。


そして人が何かに感動をする時は、この領域での理解を得たのだと考えられます。その感動が何なのか言語レベルでの理解に落とし込むには時間が必要、もしくは理解出来ない場合も多いでしょう。非常に多くの情報を整理する必要があるからです。だから何がしの感動を人に与えたいのであれば、この領域での思考が重要になってくるのです。のっけから言語レベルでの理解しかないものには共感こそあれ、心が震えるような感動はありません。繰り返しになりますが、そこにある情報が少ないからです。


映画の公開直後に宮崎駿がラストシーンの意味についてたずねられるインタビューがありましたが、その時の彼の答えはこうでした「作品が出来たばかりなので自分でも分からない」。これはまさに彼が作品を、薄っぺらい言葉の世界だけでつくっていない何よりの証拠です。


しかし世間一般では、その薄っぺらい言葉の世界での整合性をとった作品が尊ばれているようです。なんとなく賢そうにみえるのからでしょう。それにそのような作品は構造が単純なため、鑑賞者もすぐに言語レベルでの理解が得られます。レベルは低いものの、そのような論理的整合性を見つけることは、鑑賞者にとっても快感だし、鑑賞者自身もちょっと賢くなった気分が味わえるのだと思います。だから、一見整合性が取れていないようにみえる高度な作品に触れたとき、深く考える事もせず「感情に流された論理性に欠ける低レベルな作品だ」と片付けて悦に入るのです。


それはもちろん美術界にも言えます。昨今、構造の単純な作品が横行しているのはそのせいだと思われます。説明文で全てが済んでしまう浅い作品ではなく、より複雑な言語外の世界に目を向けるような作品をつくるべきです。そして鑑賞者もそれを求めるべきです。


言葉で簡単に説明のできる作品は、低レベルです!

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