【第29回 美術を語る茶会 ゲスト 八雄×村上裕】
開催地:自宅
参加者:12名
今回は即興演奏にのせてのライブペイントという、茶会としては初めてのイベント的な試みでしたが、沢山の方にお越しいただきました。ライブペイント後の茶会でのディスカッションも「即興芸術とは?」というテーマを設定したせいか、大いに盛り上がりました。お越しいただいた方々にはどうもありがとうございました。レポートは後日投稿します。
【第29回 美術を語る茶会 ゲスト 八雄×村上裕】
開催地:自宅
参加者:12名
今回は即興演奏にのせてのライブペイントという、茶会としては初めてのイベント的な試みでしたが、沢山の方にお越しいただきました。ライブペイント後の茶会でのディスカッションも「即興芸術とは?」というテーマを設定したせいか、大いに盛り上がりました。お越しいただいた方々にはどうもありがとうございました。レポートは後日投稿します。
【第28回 美術を語る茶会】
開催地:自宅
参加者:3名
今回は大阪からもお客さんがいらっしゃいました。「こっちにも遊びに来て下さいよ、案内しますから」といううれしいお言葉をいただきましたが、そこから「意外と地元を案内するのって難しいよね」という話になりました。
そこで披露したぼくのちょっとした失敗談をここに書こうと思います。
数年前ぼくが文京区の小石川に住んでいた頃、熊本からお客さんがいらして、東京を案内するということがありました。そのときぼくは自転車で谷中、根津、千駄木あたりの古い町並みをまわるプランを立てました。その地域はその頭文字をとり「谷根千」などと呼ばれ、昭和の雰囲気の残る、東京の人にも人気の観光スポットです。しかも近所だしこりゃ最高!そう思ったのです。
しかし当日、彼はあまり浮かない顔つきです。どうしたのかな?と思ったそのとき、ボソッとこんな一言が。
「なんか熊本みたいだなぁ…」
やってしまいました。
プランの立て間違い。そう、実は自分もこれと同じような経験をしたことがあったのです。
ぼくは作品制作で地方に行く機会が多いのですが、ある地方のかなり田舎の地域に行ったときのことです。気を利かせて地元の方が案内してくれたのは、地元で人気の最新のショッピングモール。そこのスターバックスみたいな所で甘いもの食べたように記憶していますが、そのときのぼくの感想は、
「なんか東京みたいだなぁ」
連れて行ってくださった方には本当に申し訳ないのですが、ぜんぜん面白くなかったのだけはよく憶えいます。ぼくとしては、田舎の田園風景や自然とか、地元の人しか知らないような寂れた神社とか、そんなところを見たかったのです。土地の方には何でもないもの、そこにぼくのニーズがあったということです。
さて、熊本の彼のニーズは何だったのか。
それは言うまでもなく「都会」です。
田舎において都会的なものが珍しいのと同じように、都会においては田舎的なものは有り難がられます。古い町並みが残り、大きなビルも無いノスタルジックな雰囲気の谷根千は、都心においては田舎的です。だから人気のスポットであると思うのですが、ぼくが一度だけ訪れた熊本市は、確かにこんな雰囲気でした。
さらに、埼玉は朝霞出身のぼくとしては、都心で地元民がママチャリを乗りまわしているのは、ひとつの憧れでありました。文京区小石川在住ということを密かに(いや、本当はかなり露骨に)ステータスと感じ、心の中でニヤついていた当時のぼくは、そんな経験を彼にもさせてあげようと思ったのだと思います。
しかしよく考えれば、東京近郊限定の微妙な事情からくるステータスなどとは無縁の彼にとっては、ママチャリなどは何の魅力もない、普段の乗り物でしかありません。しかもそれに乗って地元熊本みたいな所をサイクリング。ぼくのお気に入りの風情のある裏道、東京のど真ん中とは思えない枯れた道ばかり厳選して案内したのです。
完全にニーズの読み間違いです。
恐らく「地下鉄に乗って六本木ヒルズ!」が正解だったように思います。
価値の在りかは人それぞれです。
表現においても的確に何かを伝えたい場合は、対象者の心の機微をしっかり読むのは大事かもしれませんね。なんて最後は無理やり美術っぽく締めたいところですが、単なる「表現」に終わらない「本当の芸術」はそんなことは微塵も考えず、ぶっ放す!!そうあるべきだと思っています。
ん?
今回は芸術論的にはちっとも結論めいたことのない、ちぐはぐな文章となってしまいました。
ありゃありゃ。
【第26回 美術を語る茶会】
開催地:自宅
参加者:4名
今回は抽象画に関する議論が白熱し、ほぼそれがメインでしたが、内容があまりに専門的すぎたのでここで取り上げるのはやめておきます。
その代わりとして。
我々がアーティストとして現代美術をやって行くためにはどうしたら良いのか、結局オルタナティブなところでやるしかないのか、という話が出ました。すると参加者の一人が、
「でもオルタナティブな場所っていうのは、お客もオルタナティブ、価値観もオルタナティブ、金額もオルタナティブなんですよ、意味ないんですよ!」
との発言。なかなか面白いです。さらに、
「今のアーティストがオルタナティブなところで王道なことをやろうとするのが、非常にいかんのだと思いますね。本当にオルタナティブなアーティストになるなら、活動自体をオルタナティブにしないと」
なるほどなあ、と考えさせられました。
しかし現代美術そのものが、そもそも世間的に王道なのだろうか?という疑問を後から持ちました。
確かに昔から美術はカルチャーの王道のひとつだし、現代美術もその文脈から今の美術の王道だと言えると思います。しかし現代のカルチャーの王道のひとつに現代美術が数えられるとはとても思えません。
そもそも純粋な現代美術のファンの数は極少数で、一説には全国に2・3千人ほどではないかとも言われているようです。
昔からの流れで、現代美術はカルチャーの王道のひとつとしての扱いを受けていますが、実は、今現在は美術自体が不在であり、現代美術そのものがオルタナティブなカルチャーなのではないかとも思えます。
今回は思いつきで何の裏付けもなく書いているので自信があまりありません。実際のところはどうなんでしょう?そもそもカルチャーって何なんでしょう?現代美術とは?
わからないことだらけです。
【第26回 美術を語る茶会】
開催地:自宅
参加者:3名
今回のレポートは手前味噌な話になってしまいそうです。
というのも、今回は若い女性のライターさんが参加してくれたのですが、彼女から「ジェンダーさんは概念を言語化する力をどうやって身につけたんですか?」という質問を受け、それについてその後いろいろ考えたことを書いてみようと思っているからです。
その質問はぼくにとっては意外でした。言葉を生業にしている人をぼくはとても尊敬していて、知性への憧れというか、自分もそうやって自由に言葉を使えるようになりたいと思っているので、それを職業としている方から、言葉について褒められるのは、うれしくもあり戸惑いを感じるものでもありました。
その場ではコンセプチャルアートの話をし、自分のフィールドでの考え方を伝えたのですが、後々それは自分の中で気になる事として残りました。
果たしてぼくにそんな力があるのだろうか?
そんな風に考えを巡らしていましたが、よく考えてみれば、ぼくも若い頃、美術作品の解説はもちろんのこと、詩や映画の解説などを読み、作品に対する解釈ができる人を極端に尊敬していたことを思い出しました。「どうしてこんな事がわかるんだろう?やっぱり頭の作りがちがうのかな?」なんてことを思っていましたが、どういう訳だか最近は、ぼくも少しこの解釈というものが出来るようになってきたようです。
実感として一番わかりやすかったのは詩です。昔はさっぱりわからなかった詩の意味が、スっとわかることが多くなってきました。(もちろん今でもさっぱりわからないものも沢山ありますが)昔から気になっていたものを、例えば10年ぶりに読み返したとき、作者の言いたいことが手に取るようにわかり、自分でも驚くことがあります。
さては彼女の言っていた「概念を言語化する力」ってのはこの力のことか? 少しづつ何かが見えてきました。もしこれが彼女の言っていたその「力」なのだとすれば、確実な答えが一つあります。
それは経験です。
非常にありふれていますが、ぼくの場合はこれが全てだと思います。
例えばひとつの作品においてある概念が表現されていたとします。それが漠然としていて言葉に置き換えるのが難しいものであるとしても、人生の色々な経験積むことで、その漠然と感じる概念を具体的な自分の経験に当てはめて解釈することができます。それができれば、それを言葉にすることは比較的容易です。これが恐らく彼女の言う「概念を言語化する力」なのだと思いますが、これには前提として、まず漠然とした状態でその概念を感じとる必要があります。それが出来なければいくら経験があっても、それを当てはめる先がないからです。しかし言語化されたものを見て納得がいくというのならば、既にそれはその概念を感じているということになります。
だから決して言語化できないからといって概念そのものを理解していない訳ではないのです。そのことはもちろん彼女も理解していることとは思いますが、あえて言うなら「概念を言語化する力」は整理をする力であって、特別にクリエイティブなものではないということです。ぼくも若い頃はこの力に憧れていましたが、これは歳と共に自然と身につくもののようです。
なので若い時には今できること、つまり整理することよりも生み出すことに力を注いで欲しいと思います。全てではありませんが、若い時にしか出来ない事があります。
繰り返しになりますが、誰かが言葉で回収したものに納得し、その能力に憧れる気持ちはわかります。しかしその回収された言葉を理解できるという事は、その概念そのものは理解しているということだから、本質的には両者は同じだと思います。
なので今はとりあえずどんどん生み出すことが大切だと思います。自分が何を表現しているのかハッキリとわからなくて不安であっても、自分を信じてたくさん作品をつくっていけば、いずれ必ず自分が何をやっていたのかがわかります。それから少しづつ整理していけばいいんです。作品はあればあるほど後々整理のしがいがあるってもんだと思います。
今回はなんだか説教みたいなレポートになってしまいました。偉そうに若い若いと書きましたが、ぼくだってまだ十分若いのです。生み出す力をもっと鍛えたいです!
【第25回 美術を語る茶会】
開催地:自宅
参加者:4名
今回は、長く油絵を描き続けている女性作家の「最近絵をやめようと思っている」という話が印象に残りました。きちんとしたギャラリーに所属し定期的に個展も開いている彼女が、なぜ絵をやめるのか、その理由を話してくれました。
写実的な作風の彼女はとても絵がうまく、その絵を見れば誰もがもっと続ければいいのにという気持ちになり、なぜやめるのかという疑問を持ちます。そんな疑問に彼女はこう答えました。
「私は絵がうまいだけだった」
これには少し驚きました。絵を描くだけなら才能はあると思うけど作家活動をする才能がまるでなかった、と言うのです。そして、学生の頃から発表することは不自然と感じつつも、そうしない訳にもいかず仕方なく発表していた、しかし最近だんだん発表しなくてもいいかも、という気持ちになってきたと言うのです。
美術を前に進めなければいけない!という勝手な義務感に疲れたのも原因の一つだということで、この茶会の様な小さなコミュニティで、「見て見て!」と絵を見せるくらいの狭さが、自分の責任の取れる範囲なんだと感じてきたとも言っていました。それが自分の把握できる範囲であり、それくらいの実感で何かものをやりたい、日本の美術のために!とかではなく、とのことでした。
それからもう一つ、彼女はギャラリーとの付き合いや絵の売買に関わることで、本来の制作の目的を見失ってしまい、自分が何をやっているのか分からなくなってしまったようなのです。
コマーシャルギャラリーで発表する以上はその作品を売らなければいけませんが、芸術の本質は売買とは関係がありません。売買のことだけを考えれば作品はつまらないものになるのは当り前です。しかしギャラリーとの付き合いをする以上はある程度そのことも考えなければいけません。そこに折り合いを付けるのは「作家活動」をする為の必要条件のひとつなのかも知れませんが、芸術に対して純粋で、少々融通のきかない彼女にはそれがうまく出来なかったようなのです。絵を沢山の人に見せるのが難しくなってきた、そう彼女は言っていました。
さて、作家活動とはなんなのでしょうか。
どうやら、ただ良い作品を制作するだけでは作家活動をしていけるとは限らないようです。自分の作品をプレゼンする能力や発表の場を確保する能力が必要なのはもちろんのこと、ある程度の妥協とそれに納得し引きずらない力も必要なようです。彼女の場合そのジレンマに疲れ、美術をやめる決意をしました。ある意味で真面目過ぎたのだと思います。
「自分は何も出来ないけれど、作家活動は好きですね」
そんな中、参加者の一人からこんな発言がありました。その彼は30歳を越えた最近になり美術を始めましたが、特に専門的な美術の技術は持たずに精力的に活動をしています。作家活動に制作がついてくるタイプで、制作は好きだけど嫌々作家活動をしていた彼女とはまるで反対のタイプです。しかしそういう人が成功している気がするなあ、という話になり、プロダクトが強い会社より営業が強い会社の方が儲かりますからね、なんて話も出ました。
美術の場合、単純にプロダクトと営業という分け方はできませんが、似たような状況にあるのは確かです。とかく純粋に美術を信じる作家はプロダクト重視になりがちですが、営業ももちろん大事。この二つのバランスが保てて初めて「作家活動」が成立するのだなあと今回はつくづく感じました。
余談ですが、自分は彼女が絵をやめることを実は茶会の前から知っていました。初めてその話を聞いたとき、彼女はさわやかにこう言っていました。
「いやー、これから絵を本格的にやめるわ!」
もちろんビックリした反面、極端な考え方をする人はやめるときもこういう発言をするのかぁと妙に感心しました。「本格的に始めるわ!」という人は何度か見たことがありますが、こんなの初めて聞きました。本格的にやっていたからこそ、本格的にやめる必要があるのでしょう。
しかし今は、絵筆を折るというより、もっと自然に「あ、これじゃなくてもいいのかも」という感じになっている途中なのだそうです。
新しいことも始めたという彼女。
がんばって欲しいです。
【第11回 美術を語る茶会】
開催地:トキハ別府店 7階
参加者:4名
本格的に美術を学び始める理由というのは人それぞれです。しかし大抵の人は子供の頃から絵が上手くて好きだったという場合が多く、より上手くなりたいというシンプルな理由が一番多いのではないでしょうか。
しかし今回は、現在「美学校」で美術を学ぶ、かつて絵が苦手だった(今どうなのかは未確認)女性のお話です。彼女はただ単に絵がヘタクソだったというだけでなく、絵に関するトラウマまで持っています。
彼女が小学四・五年生の頃、チャボを描くという図工の授業がありました。絵が苦手だった彼女はどう描いてよいのか全く分からず、隣の上手い子の絵をコッソリ色から何から全部丸写しにします。絵が描き終わり集められた作品は、一枚ずつ紙芝居のようにして先生が講評をしたそうです。彼女の不幸は出席番号に有りました。彼女が写した絵の上手い子は、彼女の一個前。つまりその子の講評が終わった直後に、彼女の絵がクラス全員に披露されてしまったのです。
彼女が絵を丸写しにしたのは一目瞭然、誰の目にも明らかです。彼女曰く「あの時怒られればまだ良かった…」。その時彼女は先生に、なんと「気を使われた」のです!
「……あぁぁと、…えぇぇと、この辺の色とか?いいですねぇ……んんーあと、あと、あとは…」
彼女よりできの良い全く同じ絵の講評の直後です。言う事なんか残っている訳ありません。先生にも同情しますが、もちろん一番は彼女です。クラス全員の前で彼女は気を使われました。むしろクラス全員が気を使ったと言っても良いでしょう。誰一人、彼女の絵に茶々を入れる子はいなかったそうです。最近の子は大人ですね。しかし彼女の胸はギュウギュウに締め付けられ、その負荷は大人になった今でもかかり続けているようです。
その後も彼女には様々なトラウマが襲いかかったようですが、それはあまり美術とは関係が無いようなので聞きませんでした。しかしそれらのトラウマは彼女を孤独の人とさせました。
一人が好き。
大人になった彼女は逃げるように海外へ飛び出します。彼女曰く、旅などと言うようなカッコいいものではなく、旅行などと言う楽しいものでもない。何だか暗い逃避行だったようです。
そのような事を繰り返すうち、彼女は旅先でとある人物に出会います。詳しい事は省きますが、美学校の講師をするその人物がキッカケとなり、帰国後そもそも美術の苦手な彼女が美術の専門学校である美学校に通う事となるのです。
「美学校のパンフレットを読めば読むほど美術の事しか書いていなくて、本当に迷いました」って当たり前です。美術の学校なんだから!
そして今、彼女はその人物の講座をとる美学校の生徒です。その流れで別府にも来ているのです。今回は作品をつくりませんが、今秋に初めての作品を制作する予定だそうです。
ここからは私見ですが、この一連の流れを聞く限り、彼女は一般的に言うような自己表現のための美術でなく、自分の何かを変えるため、克服するために美術を勉強し始めた様に感じました。美術セラピーという言葉はありませんが、そんな感じです。
そのようなタイプの人に会うのは初めてで、どちらかと言えば美術に対して硬派なぼくは、何か違和感というか、一般的な美術を勉強する動機に比べて不純というか軟弱というか、そんな印象を受けました。ボクシングジムにダイエット目的で通うようなイメージです。しかし彼女の別府での真面目で真摯な活動を思い、すぐに考えを改めました。
それは、ボクシングジムにおいても真剣にダイエットに取り組み、それを成功させる事は立派な事ではないのか、と言うことです。ジムの主たる目的は「強い選手を育てる」ことです。なのでぼくは「強くなる」という意思を持たない人は、ジムにおいては不純で軟弱な存在なのではないかと考えました。しかし真剣にプロの選手を目指す覚悟もなく、ダラダラと惰性でジムに通い、漠然と「強くなりてぇ〜」とだけ思っている人間と、しっかりとした意思を持ち、真面目にダイエットという目的を達成させる人間のどちらが立派だろうか、どちらがボクシングに何かの意義を見出せるのだろうか、という思いを持ちました。
今回自分は美術に関して、かなりガチガチの作家志向の一面的な捉え方しかしていなかった事に気づかされました。彼女には美術の勉強を通して何かを得られる事を願ってやみません。
美術にも色々な側面があるようです。
【第10回 美術を語る茶会】
開催地:トキハ別府店 7階
参加者:3名
ところでギャグにいちいち説明をつけるのは寒さの極みですが、例えば古典落語などある程度の予備知識が必要なものには説明(解説)が必要な場合もあります。同じように美術作品にも説明の必要なものとそうでないものがあると思われます。
主に感覚的なものに訴える作品、例えば絵画や彫刻などには余計な説明は邪魔になることが多いですが、コンセプチャルアートなどは言葉での補完が必要な場合もあります。一概には言えないデリケートな立ち位置のこの「作品の説明」ですが、この「説明」が、作品の理解を妨げたり、作品そのものをおかしくしているという本末転倒な出来事もおこっています。今回はそんなお話です。
前者の感覚的なタイプで、非常優れた作品であるにも関わらず見当違いの説明で作品を台無しにしている展示をたまに見かけます。それは作品の完成後本人の作品に対する理解もままならないうちに無理矢理作った文章である場合が多いのだと思いますが、それはまだ救いがあります。その説明文を会場の壁から外せばいいだけだからです。
問題は後者のコンセプチュアルなタイプによくあるのです。
それは会場に掲げられた説明が作品の完成後に考えられたものではなく、作品制作前の最初のアイディアをそのままトレースしたものである場合です。もちろん他のタイプの作品もそうですが、コンセプチュアルアートは特にコンセプトにブレがあってはなりません。そう考えて一貫したコンセプトを大事にしたのでしょう。しかし最初のアイディアを書き付けた、もしくは頭の中で考えたテキスト(これらをコンセプトと呼ぶ事も多いが)を絶対のものとして最後まで制作するのは危険な事です。なぜならそれは、作品が言葉の向こう側にジャンプできる可能性を完全に摘み取ってしまうからです。
美術、音楽、文学、全ての芸術作品は言葉を超えた表現でなければ意味がありません。しかし言葉のレベルの設計図にがんじ絡めになっていては、言葉を超えられないのは当然です。最初に打ち立てた所謂「コンセプト」に縛られ過ぎた作品は、説明文の内容を説明する「図1」的なものになり下がってしまいます。なぜならその作品には説明文以上の情報が無いからです。つまり単純過ぎる作品となってしまう、これが説明が作品そのものをダメにしているパターンです。
作品制作においては言葉で設定したルールに縛られすぎず、感覚を信じる事はとても大事です。それは無軌道とは違います。「この作品にはAが必要だ!」と思った時、言葉のレベルでの「浅いコンセプト」がそれを認めないとしても屈してはいけません。作品のアイディアが強靭なものであるならば、感覚を採用する事よって完成する作品のコンセプトがブレる事はまずありません。本来の「深いコンセプト」は感覚の中に宿っているからです。作品制作は感覚の中に眠る本当のコンセプトを掘り起こす作業でもあり、それがより奥行きのある作品をつくり得る方法なのだと思います。言語レベルでの整合性は、つくりながら或いは完成後に考えればよいのです。
そこで言っておきたいのは、感覚とは決して曖昧なものではないという事です。感覚とは言語のように限定的ではない、もっと抽象度の高い思考空間です。そこではより多くの情報がより横断的に交換され結論が導き出されます。それが第六感や霊感(インスピレーション)と呼ばれるものです。だからその結論が言語レベルで理解出来ないからといって、それが間違いだと考えるのは間違いなのです。
そして人が何かに感動をする時は、この領域での理解を得たのだと考えられます。その感動が何なのか言語レベルでの理解に落とし込むには時間が必要、もしくは理解出来ない場合も多いでしょう。非常に多くの情報を整理する必要があるからです。だから何がしの感動を人に与えたいのであれば、この領域での思考が重要になってくるのです。のっけから言語レベルでの理解しかないものには共感こそあれ、心が震えるような感動はありません。繰り返しになりますが、そこにある情報が少ないからです。
映画の公開直後に宮崎駿がラストシーンの意味についてたずねられるインタビューがありましたが、その時の彼の答えはこうでした「作品が出来たばかりなので自分でも分からない」。これはまさに彼が作品を、薄っぺらい言葉の世界だけでつくっていない何よりの証拠です。
しかし世間一般では、その薄っぺらい言葉の世界での整合性をとった作品が尊ばれているようです。なんとなく賢そうにみえるのからでしょう。それにそのような作品は構造が単純なため、鑑賞者もすぐに言語レベルでの理解が得られます。レベルは低いものの、そのような論理的整合性を見つけることは、鑑賞者にとっても快感だし、鑑賞者自身もちょっと賢くなった気分が味わえるのだと思います。だから、一見整合性が取れていないようにみえる高度な作品に触れたとき、深く考える事もせず「感情に流された論理性に欠ける低レベルな作品だ」と片付けて悦に入るのです。
それはもちろん美術界にも言えます。昨今、構造の単純な作品が横行しているのはそのせいだと思われます。説明文で全てが済んでしまう浅い作品ではなく、より複雑な言語外の世界に目を向けるような作品をつくるべきです。そして鑑賞者もそれを求めるべきです。
言葉で簡単に説明のできる作品は、低レベルです!
【第9回 美術を語る茶会】
開催地:トキハ別府店 7階
参加者:4名
今回の茶会は若いアーティスト野口竜平くんの独壇場でした。この茶会のレポートでは個人名は出さないつもりで書いていましたが(いちいち確認を取るのが面倒だから)、彼はいま個展を開催しているのでその宣伝も兼ねて、というより彼の作品の話を聞くだけでまるまる1時間終わってしまったので、それしか方法がないので個人名を出します。
という訳で今日は野口竜平くんのお話です!
彼は別府の商店街をタイヤを引いて走る、というパフォーマンスをほぼ毎日1時間半、1カ月ほど続けていました。今回の個展はそれに関する展示となりますが、テーマは単純ではありません。
彼はパフォーマンスアートとリレーショナルアートとアートプロジェクトの共通点は、鑑賞者が重要な位置を占める事であり、表現者と鑑賞者の間に出来上がる空間が、その作品の最も大切なものであると話していました。そしてまたそこには、記録という問題がある、その様な空間は写真や映像やテキストでは、最も本質的な部分が全く抜けてしまう事がある、或いは意図的な「編集」により別ものになってしまう、と彼は言います。
ここでの編集者は作家本人も含まれるというのがとても面白く感じました。確かにその作品が、表現者と鑑賞者の間に生まれる空間が本質となる作品であるならば、作家本人であろうとその意図を介在させてしまう「編集」は作品を別ものにしてしまうでしょう。そして彼はパフォーマンスアートをはじめとする3つのアートがその様なものだと主張します。
彼は今回の個展で、パフォーマンスを目撃した時に生まれる空間と同質のものをギャラリーに定着させたいと考えているようです。一方的な記録の展示ではなく、そこにもそれが作品の本質となり得る表現者と鑑賞者の間に生まれる空間を作り出そうとしています。
その空間、その新しい記録の方法、これが彼の個展のテーマです!!(たぶん)
別府 スタジオ風穴にて14日まで。
乞うご期待!
<連絡>
竜平くん、なんか間違いがあったら言って下さいね。
【第7回 美術を語る茶会】
参加者:7名
今回の茶会は前日に行われたダンスツアーの話から始まりました。ダンスについて詳しい人はあまり居ませんでしたが、辛口のコメントが続きました。
・身体性の凄さや純粋な踊りの美しさを見せたいのか
・コンセプト重視の現代的なアプローチを見せたいのか
このどちらを見せたいかによって評価の仕方が変わるよね、という事が議論されましたが、最終的には、どちらを見せたいのか分からないこと自体がまず問題だ、という話となりました。
いつにない辛口茶会。
ダンスツアーについて、ぼくは深く考える事なく「良かったなぁ」と思っていたので、今回はすこし驚きました。真剣におしゃべりするのは大切ですね、なるほど色々な発見がありました。
真剣二・三十代「盛り場!」
【facebook上での参加者からのコメント】
完全に自戒ですが、わくわくに参加しててたまに音楽をやると、「音楽に詳しい人があまりいない」が故にへぼい演奏でも高評価をうけてしまうことが何度もありました。半分は、「面白くなかったけどよくわからないから良かったって言っとこ」ってノリの人もいたと思います。表現の研鑽のためにも、審美眼を鍛えるためにも、ちゃんと感想を話してなぜそう思ったのかを語れる場があるのは貴重だなと感謝しています。
【第6回 美術を語る茶会】
参加者:2名
今回の茶会は「楽しさについて」という話が出てきました。我々はどのような事に楽しさを感じるのでしょうか?
楽しさには、美味しいものを食べる、ディズニーランドへ行くなどの準備された楽しさと、制作活動や冒険など、自ら創り出す楽しさの2種類があると思われます。制作活動を自らの楽しみと出来るのは素晴らしい事です。
しかし、「制作ってマジ楽しいよねーウッヒョー!」
ってのは何か違う様な気がします。
以前、別府のライブハウスの辛口女主人の面白い話を又聞しました。
「音楽で自分のストレスを発散させる奴の演奏を聴くと、こっちにストレスが溜まる」
なかなかの名言だと思います。
このような事は美術の現場にも多々ある事ですが、特にライブペイントなどによく見受けられるように思います。
気持ち良さそうに揺れながら、ビール片手になんかを描いている。あるいは複数人で、何かに取り憑かれたようになんかを描き殴っている。そしてそこには必ず音楽が流れていて、いつ終わるのだか分からない、何を見れば良いのか分からない不毛な時間が過ぎていくのです。そしてどうにか最後まで見終わると、一応完成とされた作品もクオリティーが低く、特に起承転結のような見せ方の工夫もしてないため、何のためにライブで描かれたのか全く分からない、「?????!」という結果が待ち受けているのです。
なぜこのような事が起こるのか?
それはもともとの美術が音楽などと違い、発表時に快感を伴う事がほとんど無い事が原因だと思われます。音楽の発表には演奏というライブがあります。それは快感を伴うものでありますが、例えば美術の個展などにはそれがありません。私見ですが、そこで発明されたのがライブペイントではないかと推測します。チマチマと制作してきたストレスを、オープニングで発散したい!なんか暴れてハッチャケたい!そういう欲求だけが見て取れるライブペイントが多いと思うからです。
もちろんライブペイントだけでなく、アトリエで制作された作品にも同じような感想を抱くものがあります。それらは一様に自分の楽しさ気持ち良さだけを追い求め、「見せる」という事を忘れているのだと思います。
快感だけを追い求める楽しさには限界があります。そしてそれは見る人にストレスを与えるものになりかねないものです。
やはり、より高いステージを目指し苦労を重ねる中に、本当の楽しさや喜びが見え隠れするものなのでしょう。それはすぐにどっかへ行ってしまうかもしれませんが、自分の制作活動については、しみじみと「……楽しいよ」と言えるようになりたいです。
<お詫び>
全くの偏見でライブペイントについて書きましたが、そうでないものも沢山あります。素晴らしいものもぼくは何度も見ています。
【第5回 美術を語る茶会】
参加者:7名
作品発表に伴う「恥ずかしさ」とは何か?
昨日の茶会の話題に上ったテーマの一つです。
なぜ恥ずかしいと思うのか?
それでも発表するのはなぜか?
「そういえば、初めて作った曲を友達に聴かせたとき、メチャクチャ恥ずかしくて死にそうになって、服を全部脱ごうと思ったもん」
こんな発言がありました。
なんとも初々しい、若者の気分を思い出させる発言です。本気でぶつかって作り上げたものを初めて人に見せるという事は、怖くて恥ずかしい、大きな不安をはらんでいるものです。
場数を踏むことで、そういった恥ずかしさや不安に対して少しずつ鈍感になり、表現者としての図太さを身につけていくものなのでしょう。それはある意味大切なスキルの一つである事は確かなのですが、このある種のふてぶてしさは、作品に対しての感動を妨げる要因になり得る様な気もします。
それは、どんなにキャリアを積んだとしても、恥ずかしくて発表する事に不安を感じる程に初々しい問題を自分の中に持ち続け、それを作品化できる赤裸々さを忘れない事が大切なのだ、という事を示唆しているようにも感じます。
恥ずかしさと表現欲のせめぎ合いを感じる作家に共感します。
内面に由来する事は恥ずかしいものです。それでも、いま心にあるもの感じているのもの考えを生のまま出す、なんの言い訳もなく表現するしかない爆発するような気持ち。こののっぴきならなさが本物の表現欲です。
ある意味では、最近発表した作品が恥ずかしいか否かが、その作品の自分に対する新しさのバロメーターとなり得るのかもしれません。
恥ずかしさは大事です。
【第4回 美術を語る茶会】
参加者:5名
本日の茶会ではパブリックアートについての話題が出ました。よく駅前とか市役所とかの前にあるブロンズのアレです。
「あの裸はいったい何なのか?」
私見では、あの様な像が乱立した時期の彫刻界の権威たちの作品が裸体中心だったのでは?と推測しますが、話は「よくあんな素っ裸が公共のスペースに置かれて許されているなあ」という方向に進んでいきました。
詰まるところ「芸術!」という免罪符についての疑問です。芸術という言葉あるいは権威を使えば何でも許されてしまうのでしょうか?
おそらく裸体の像の設置に反対した市の職員などもいたことでしょう。しかし結果として彼らは「芸術!」という権威の前に平伏すよりなかったのかもしれません。
例えばその結果、市民らに「パイ山」などと言う下品極まりない通称で呼ばれてしまう作品が存在する事になるのです。「パイ山」の「パイ」はもちろんオッパイのパイです。芸術という権威の前に設置を阻止できなかった市職員の敗北は、このような市民の風紀に関わる問題を自ら招き入れる結果となってしまったという事です。
権威にまみれてしまった「芸術!」
その扱いは全くもって難しいとしか言いようがないように思えます。
そしてその後はもっと純粋な「芸術」についての話に。
ぼくたちは芸術をどうとらえるのか?芸術とは何か?といった話が始まった頃に今日は時間となりました。この話はまた後日のテーマに。
<参考資料>
写真は、神戸は三宮の「パイ山」です。
よく見るとオッパイはあまり関係ないように思いますが、ネーミングとしては雰囲気をよくとらえている様に思います。
てゆーかなんですかコレは?